育った環境が同じように見えたとしても、現れる個性と違い

2016年ころ、どなたかのブログか、はたまたFacebookの投稿だったか。“ヘアドネーション”という活動を初めて知りました。
ヘアドネーション(英: Hair Donation)とは、小児がんや先天性の脱毛症、不慮の事故などで頭髪を失った子どものために、寄付された髪の毛でウィッグを作り無償で提供する活動。-Wikipediaより
“ヘアドネーション”を知るまで、私にとって髪の毛は、傷んだら切り揃えて捨ててもらうものでしかなかったのに。「有効活用してもらえるの??✨どなたかに喜んでいただけるの??✨」に変身してしまいました。
どうせなら、ウィッグとして活用いただける長さまで伸ばしてから切ってもらおう。
もともと、髪型へのこだわりも、長さへのこだわりも持っていませんでしたから、「いずれ、どなたかのウィッグとして生まれ変わる」であろうわたしの髪の毛は「お預かりしているもの」だから、と思うようにもなりました。
ある時、なぜわたしは髪の毛に対して、ここまで興味・執着がないんだろう??と疑問に感じました。
自分なりに考えてみて思い当たったのは
子どもの頃、髪の毛を切ってくれるのは実家の母親でした。ロングヘアに憧れていても、いつも母親の趣味(もしくは技術)でマッシュルームカット×オン・ザ・まゆげにしてくれたものでした。

オンザまゆげ認識可能な画像発見
そっか。髪型や長さに関して、自分の主張が通らないことに慣れてしまったから、頓着しなくなったのかー、と納得しかけて…わたしの2人の姉のことを思い出しました。
同じく、母親床屋さんで幼少期を過ごした姉2人は、決してわたしと同じような思考回路をしているわけではありません。
わたしのように、伸ばし放題でもなければヘアドネーションをしているわけでもない。
となれば。母親の影響を受けて髪の毛への執着を手放したのは、わたしの本質なんだとも納得しました。
たとえば、あんこをゆでるときに、砂糖の甘さを引き立てるためにひとつまみの塩を加えるとします。
あんこと砂糖と塩の調和は、“あんこの量”や“砂糖の量”、“あんこの生産地”、“砂糖の種類”でも、まったく違った結果になると思いませんか??
ひとつまみの塩、は実家の母親床屋さんだとご想像ください
同じ分量の塩を加えたとしても、姉ふたりと、わたしと。あんこの味は決して同じではないと思うのです。
話は飛躍しますが
数秘、の世界でも同じようなことが言えるかもしれません。
わたしの誕生日のチャートに“1”があって、姉のチャートにも“1”があったとしても、他の数字の配置でまったく異なった作用が生まれるかもしれません。
チャートとは、図(もしくは図を並べた表)・グラフ・カルテのこと
あんこの例えのように、さらに砂糖の甘さが引き立つか。それともしょっぱさばかりが強調されるか。
興味深いと、お思いになりませんか??

